変容の運河へ、「帰れなさ」とともに
〜七尾旅人『Long Voyage』と、その航路によせて
安東嵩史

〈XI〉

 最初に『Long Voyage』を聴いている間、ずっと「この話はいつ始まったのだろうか」と考えていた。パンデミックか。肉親の死か。震災か。『billion voices』、ミファ、9.11、上京、音楽、不登校、海鳴り、寝物語、誕生、あるいはそのもっと前、七尾旅人という人生の時間やナラティブの射程を超えたどこかから流れ込んできたのか。

 この世に産み落とされてから現在にいたるまでの時間の流れや故地との距離の中にあるのは、すんなり受け入れられるものばかりではない。飲み込みきれない苦味が舌の上に残るようなこともあれば、大きなカタストロフが存在することもある。それらが「ないほうがよかった」ことであるという認識と、その先に存在する自己を考えることは、しばしば相剋する。どんな出来事であっても、それがなければ生まれなかった流れが世の中や自分自身の現在を形づくっていることは否定できないからだ。流れる時の中にひとときだけ生き、傷だらけになりながら先へ先へと押し流されるその不条理をどう考えればいいのかと思えど、答えはない。
 ただ、七尾旅人がこの十年の嵐と、その人生において感じ続けてきた「帰れなさ」の先に本作を生み出したという事実を改めて考える。

《いつか自分が死んでしまえばもう歌は歌えないわけだけど、何かしらの形式は残せるんじゃないかという思いがあって。例えば文学作品や映画や漫画などが持っている多様性とか射程の広さに負けないような、音楽作品としての新しい話法のようなものを残せたらと内心でずっと思っていたんです。もちろん80代くらいまで歌っていたいと思ってますが、仮に自分が歌えなくなっても、その時に、音楽にはこれだけ可能性があるんだよということが言えていれば満足なので。これからもどんどん歌い手が現れますし、人間がいる限り、絶えることなく音楽は続きますからね》

 七尾自身がこう語るように、長い時間軸を語り、社会を語り、その先にいる自分自身のナラティブにそれらを接続させた本作は、発表から一年が経過した今も多くの反響が届き続けていることが示すように、あらゆる街で、ひとりの部屋で、受け取ったものの心中で、長い航海を続けている。時代の隅で、状況の只中で、さまざまな人の中に流れる“共悲”からの声を受け取り《これまで、自分の手法はことごとくメインストリームの潮流とそぐわないという葛藤を抱えたりもしたけれど、今回は自分のポリシーを曲げないまま作ったものが受け入れられた感触があった》と手応えを感じているという彼自身もまた、己の源流をもう一度見つめながらこの先の時間へと船を出す、その経由地にいる。
 本作発売以降、いくつかの場所でライブを、バンド、デュオ、あるいはソロと多様な形態で見たが、いずれの形においても、生まれてはじめての呼吸のように大きな驚きをもって、しかしながらその驚きをなんとか乗りこなすように現在進行形で変化しながら演奏する七尾の姿が見られた。一年経った現在も、本作の名を冠したライブは日本の各地で行われ続けている。その孤高をもって一夜限りの伝説を作るのではなく、生き続け、形をいかようにも変えながら多くの仲間たちと不確かな航海を続ける術を、まさに今、七尾も身につけていこうとしている。それこそが、彼が抱え続け、また一身に受け取ってきた「帰れなさ」への応答なのだろうとも思う。「今」を固定された到達地点ではなく、絶えざる変容の経由地と考えること。それだけが、生の不条理を少しだけ生の自由に変える方法である。

 もし今あなたが何かに囚われているのなら、目の前の筏に乗り込んでその岸辺を離れ、自分の意志でそっと漕ぎ出してみるといい。勇気を出して源流に遡ってみてもいいし、目を閉じて流れに身を任せてみるのもいい。遠すぎた家路も、望まざる停泊も、よるべない漂流も、すべてがひとつの流れの中にある。それらを包括しながら流れる時間、寄せ返す時間はまるで大きな運河のように、誰しもを遠い遠い流れの先に運んでいく。そこでまた、何かが始まるだろう。

安東嵩史

編集者、著述者、ドラマトゥルク。近代世界における人間の移動という事象を入り口に、その帰結として立ち現れ続ける境界とそこで生じる文化的現象を研究し、それを下支えする長い時間軸を意識しながら制作をする。トーチwebにて「国境線上の蟹」不定期連載。
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