2018年11月05日 (月曜日)
三浦誠音「路のほとりの音楽」

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アルバム「Stray Dogs」レコーディングの中盤、本格的に作業に没入し始めたあたりから、好きだった読書ができなくなり、映画も集中力が続かなくなった。やがてアルバムは完成し、1ヶ月以上を経たが、今の所まだなかなか、楽しみにしていた作品たちが、頭に入ってこない。
制作中の、精神を海中に繰り返し沈潜させるような緊張感を、まだ引きずってしまっているようだ。
 
もう何作品か僕は、アルバムを作り続けたい気持ちがある。社会的な言葉を忘れてしまって、得体のしれない何かと、手探りの不格好な言語で、対話していたい。だから、リリースのために、あたらしい作品の説明を試みるために、おおやけに通用する言葉を覚え直し、外へと向かわなくてはならないことが、おそろしくもある。
 
だが、最近いつも持ち歩いている小さな一冊の本が、お守りのように、静かに、僕の失語を埋めてくれている。
 
南相馬 朝日座で出会って以来の友人、三浦誠音さんが、完全な手書きで、わずか数部だけ作成した句集、「路のほとりの音楽」だ。
 
日々の仕事や、お父上の介護の合間に書かれた誠音さんの詩や写真にいつも励まされてきたので、ある日彼のタイムラインからすべてのツイート、作品たちが消えてしまった時の喪失感は大きかった。
 
震災後にさらなる拡大をみた社会不安を糧にして、より先鋭化し、単純化された物言いやパフォーマンスが飛び交い、ぶつかりあうなかで、
彼の孤独で温かみに満ちた言葉のひとつひとつが、
記号化し得ない福島を、宮城を、見せてくれた。
人間を見せてくれた。
草木を、花々を見せてくれた。
僕にとってそれは、かけがえのない音楽であり、
けして聴き逃したくはない、ちいさな旋律(little melody)だった。
 
 
「路のほとりの音楽」
この句集は春の光景から始まり、
夏、秋をめぐり、峻厳な冬を越えたあと、
再び春へと回帰していくが、
これは単純に希望や生命の暗喩としての春を意味しない。
あらゆる痛苦をその身に抱え、宙吊りにされたまま、まだ鋭い寒気の残る北国の初春、3.11のあの光景へと、何度でも誠音さんは立ち返りながら、
わずかな芽吹きや、かすかな死も見逃そうとせず、孤立した言葉で世界を掬いあげ続ける。
 
これらの言葉の連なりに助けられ、僕は季節の循環を追体験する。
春は無意味な死に溢れ、
夏と秋に飽くことなく打ち据えられ撹拌されたすえ、
冬に蠢く異形の命とすれ違う。
僕たちはたしかに生きてきたのだ。
自分の中の非社会的な言語が、
もういちど外へ向けて、息を整え、足を踏み出すための、
透明な橋をかけてくれる三浦誠音の言葉。
 
1ページずつ手書きされ、製本され、
極めて限定的な形(何人かだけに、郵送する)で配布されたことにはきっと切実な意味があるだろう。
でもいつか、多くの人の手のひらに渡ってほしい一冊だ。

 
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